博士の先達に聞く
難病を治すペプチドの開発技術を確立するために、世界的評価を受けるキラル・ルイス酸触媒研究から未踏の創薬に挑む中部大学 山本卓越教授。
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日本には、サイエンス系ノーベル賞受賞の有力候補とされる研究者が数多く存在します。
キラル・ルイス酸触媒研究の先駆者で、多くの有用な触媒を生み出した中部大学の山本 尚(やまもと ひさし)先生もそのお一人です。
学術領域において高い評価を獲得している熟練研究者たちの中でも山本先生が特異であるのは、82歳になられた今もなお、かつての功績に満足せずに新たな有機化学領域を開拓する現役の研究者であることです。79歳で日本学術振興会より科学研究費助成事業の「特別推進研究」として、個人としては最高額の5年間で5億円が採択されたことからも、年齢に関係なく成果が期待されていることがよくわかります。
現在の研究はペプチドにフォーカスしてゼロからスタートされており、先生が築いたルイス触媒における世界的評価を、人類史上のインパクトという観点ではさらに凌駕する可能性を秘めています。また、山本先生は多くの実績を残してきた教授たちと同様に学長や総長といった大学における最高責任者への就任を期待されながら、敢えて自ら距離を置いて研究の第一線を走り続けてこられました。
研究意欲の高い若手博士人材のロールモデルとも言えるキャリアを歩んできた山本先生。
今回は先生の最新の研究成果に加え、その背景に息づく研究者としての信念と、そうしたお考えに至るまでに影響を受けたエピソード、そして博士人材への熱い想いをお聞きしました。
<山本先生の主な受賞・顕彰>
テトラヘドロン賞(英国)(2006年)
フンボルト賞(ドイツ)(2007年)
日本学士院賞(2007年)
アメリカ化学会創造的有機合成化学賞米国)(2009年)
野依賞(2011年)
藤原賞(2012年)
ロジャー・アダムス賞(米国)(2017年)
紫綬褒章(2002年)
瑞宝中綬章(2018年)
文化功労者(2018年)
文化勲章(2025年)
(掲載開始日:2026年1月14日)
現在取り組まれているペプチドに関する研究内容と展望をご紹介下さい。
アミノ酸から体内で合成されるペプチドは、人間に不可欠な「中分子」の機能物質です。医薬品として合成できれば、副作用がなく、微量でも効果的に作用します。しかし、現在のところペプチド創薬は医薬品の主流とはなり得ていません。それはペプチド創薬に不可欠なスクリーニングに膨大な時間とコストを要するからです。実際、現在のスクリーニング作業は “ 賭け ” のようなもので、全数スクリーニングのかなり手前で妥協せざるを得ません。
そこに私は独自に開発したプレートを使って、わずか4回のスクリーニングで200億回のスクリーニングと同等の成果を出す仕組みを創出しました。創薬の世界が待ち望んでいた賭けの要素が全くない、これまでは不可能とされてきた全数選択のスクリーニングを現実のものとしたのです。
もう一つ、私は従来の合成手法と一線を画し、革新的なペプチド合成手法を開発しました。これまでの反応剤による合成ではなく、ルイス酸触媒の研究で得た「基質支配*」の反応による合成、複数のペプチド鎖(さ)を自在に連結させる手法などを生み出してきました。
以上のような成果をペプチド合成に取り入れることにより、現在まで行われてきた手法の1/10以下の工程数で、しかも異性体が混入しない大量合成法を確立したのです。
新規に創出したペプチドは、これまで治療が困難だった、あるいは膨大な治療費を要した難病を克服できる医薬品に仕上げることが可能です。これから私はペプチドの合成研究からペプチド創薬に軸足を移し、製薬企業の立ち上げも視野に入れ、医薬品開発に注力したいと考えています。それが成功すれば、数々の病気の治療に貢献できる世界有数のメガファーマが日本から誕生することになります。
*基質支配:有機合成化学において、基質(反応する分子)自体が持つ官能基(水酸基、アミノ基など)の性質を利用して、分子内の特定の位置や立体化学を制御して反応を進める手法。これにより、保護基なしで複雑な分子を効率的かつ高選択的に合成できるようなった。
山本先生が、博士としての経験値を高めるため国内外の幾つかの研究機関を歴任された経緯を教えて下さい。
私は中学生の頃から理数系の勉強が好きで、得意でもありました。反対に暗記力が求められる社会の教科は苦手でした。私が通っていた灘中学・灘高校には、30ページほどの英文を1ページあたり1分で読み込み、内容をほぼ記憶できる驚異的な暗記力を持つ友人が少なからず在籍していたことから、文系方面では友人たちに敵わないという感覚もあったのです。
反対に、得意だった理数系の中でも特に化学が好きだったこともあり、卒業後は大学で有機化学を専攻したいと考えました。そして当時の先生から、「それならば京都大学が飛び抜けてレベルが高いよ」、と言ってもらったのをきっかけに、京都大学の工学部 工業化学科を目指しました。
そのような経緯で入学した京都大学では日本の有機化学を牽引していた野崎 一(のざき ひとし)教授の研究室に入ることができ、そこには後にノーベル化学賞を受賞なさる野依 良治(のより りょうじ)先生も助手として所属しておられました。まさに国内で有機化学を極めたいのであれば、最高の研究環境だったのです。
ところが4年生のある日、研究室のドアを開けると大勢の先輩たちが興奮気味の会話で盛り上がっていました。ハーバード大学のロバート・バーンズ・ウッドワード教授が、JACS(米国化学会誌)という学術雑誌に5報もの論文を一気に載せたのです。この時、私は有機化学研究の頂点は京都大学ではないと感じ取り、すぐに自分で推薦状を書いてハーバード大学の大学院に送ったところ、なんと数週間で合格通知が届きました。奨学金が出ることも知り、英語の勉強をし直し、生活準備を整えて渡米。ボストン郊外での生活が始まりました。
しかし合格通知は、ハーバード大学が研究を進める資格を認めたわけではなかったのです。
当時、有機化学の専攻でハーバード大学の大学院に進学したのは25人でした。そしてすぐに有機化学、分析化学、物理化学、無機化学の4科目で試験が行われました。結果は全敗。評価はABCのいずれかどころか、最悪のF(failure=失敗)判定だったのです。このままでは帰国を余儀なくされます。
私はウッドワード先生に、「少なくとも1年間は勉強させて欲しい」と懇願しました。すると先生から、「1年間頑張って4科目をクリアしなさい。すべてB+以上だったら次に進めるよ」と仰って下さいました。
それから私は今までにない本気度で勉強しました。研究者には長年の人生の中で一つの目標に過度とも言えるほど集中しなければならない時期が何度かあると思いますが、まさにこの時の勉強は典型例と言えます。そうした猛勉強の1年を経て受けた試験の結果は、Aが3つ、B+が1つと前回の評価を大きく覆しました。
そうして、有機化学の権威であり、のちにノーベル賞を受賞するイライアス・コーリー先生の研究に加わることができました。そして、そこでの能力が評価され、2年半でPh.D.を取得しました。普通でしたらJACSに論文が1つか2つ載ればPh.D.を取得できると言われていましたが、私は自ら書いた13報の論文が掲載されていたのです。
ハーバード大学でPh.D.を取得したことで、私は自らの研究成果の社会実装を考え、現在もそうですが当時の日本の化学産業界の雄とされていた東レ株式会社の基礎研究所で働くことを希望しました。そしてコーリー先生に推薦状を書いてもらい、無事に入社。
ところがその直後に日本全体が経済的窮地に陥ったオイルショックが起きたのです。東レでも研究費を大幅にカットせざるを得ませんでした。多くの実験がストップ。研究者のキャリアは停滞してしまいます。そこで私は恩師である野崎先生に連絡すると、「ウチ(京都大学)に来れば良い」との返事。母校で助手として働くことになりました。
しかし、それからしばらくして気づいたのは、日本のアカデミアの研究予算が米国と比べて格段に少ないことでした。試薬一つを買うにも認められるのに時間が掛かります。研究を進めるためでしたら何でも手に入れられたハーバード大学とは大違いでした。コーリー先生に相談したところ、日本の製薬会社の中でも先端研究開発で定評のある小野薬品工業株式会社に行けと言われました。コーリー先生はこの会社のコンサルタントを担っていたのです。コーリー先生の通訳や助手も引き受けなければなりませんでしたが、好待遇で迎え入れて頂き、論文を数多く執筆する有意義な時間を過ごすことができました。
それでも30歳に到達した頃、現状に満足できなくなりました。企業の研究方針から離れて、独立した研究を進めたくなったのです。
しかし、日本には独立した研究を行える研究所が見つかりませんでした。そこで再びコーリー先生に電話。次は日米の中間に位置するハワイ大学で好きな研究をすれば良いと言ってもらいました。実際、ハワイ大学で准教授として在籍した3年間で多くの論文を残しています。
その後、野依先生から、先生が在籍されていた名古屋大学に来ないかという連絡が入りました。名古屋大学には20年以上在籍し、教授を務めました。そして60歳が近くなり、工学部長や総長への就任が期待されるようになったのですが、私は距離を置きました。
研究者人生を歩みたい私は、有機化学の研究者としての次のステップが必要だと考えていたのです。
ちょうどその頃、シカゴ大学から教授の上位職であるDistinguished Professorとしての招聘がありました。米国では教授が自ら研究資金を獲得しなければなりません。ところが、アメリカにおける科研費に相当する研究費獲得の申請を行ったところ、ここでもまさかのF判定。私は事務局のあるワシントンD.C.に駆けつけ、理由を聞きました。そこで言われたのは、「過去の実績ばかり書かれている。未来に何をしたいのかを書くべき」ということでした。その回答を受けてすぐに申請をし直したところ、今度はほとんどがトップクラスの判定。十分な研究資金の調達に成功しました。
先生がペプチド研究に大胆にシフトされた背景には何があったのでしょうか。
先生の発明したルイス酸触媒は社会に大きく貢献し、ノーベル賞候補として毎年名前が挙がっており、中部大学では秋の発表の時期には、例年記者会見の準備が行われます。近年のペプチド合成は「破壊的イノベーション」をもたらすと大いに期待されています。
シカゴ大学には約10年に亘って在籍し、ルイス酸触媒の研究を仕上げることができました。そんなある日、妻が日本に帰りたいと言い出したのです。私も研究者として次のステージに進む時期だと捉えていたこともあり、2011年に中部大学に教授として招聘され、現在は中部大学 ペプチド研究センター長を務めています。
中部大学に来てからしばらく経ち、72歳になった頃、何かが足りないと感じるようになりました。それを突き詰めて至ったのが、“ これまでの研究が社会に大きく貢献できたとは言えない ” という考えでした。私が築き上げてきたルイス酸触媒の研究成果は、工業の様々な分野や製薬業界の領域でかなりの役に立っています。しかし、私にはまだ不十分のように思えてなりませんでした。人類に本当に役に立つ研究は何か。考え抜いて到達したのはペプチドの研究でした。
それから10年は、ルイス酸触媒の研究を断ち、ペプチド研究一色の日々が始まりました。これまでの研究者人生を振り返れば、挑戦、挑戦の連続でした。実績に胡座をかくことなく、新たな刺激や達成感を常に追い求め、気づくと約600報に及ぶ論文を書き、学術賞も数多く頂きました。走り続ける博士人材には、後から評価が追いついてくると言えるのではないでしょうか。
日本から多くの優秀な博士を輩出するための提言をお聞かせ下さい。
私が考える優秀な研究者とは、「独自の研究を通して社会に新しい価値をもたらせる人」です。未知の領域に挑戦するスピリットを持ち、画一的ではない多様な視点を有することでイノベーションを引き起こす人材と言い換えることもできます。
しかし、現在の日本の教育は、果たしてそうした人材を育むのに適した制度や内容でしょうか。私は理想的な教育とは大きく乖離していると強く感じています。例えば日本では大学入試は筆記試験がメインであり、それで選別できるのは頭の良い人や物事を論理的に考えられる人です。本来選び出すべき、もの凄く創造性のある人を見落としかねません。確実に有用な化合物を取り分けるスクリーニング手法を追求してきた私から見れば、かなり粗い選別方法に思えてなりません。
実際、海外各国のアカデミアの入学の合否を決めるのは、独自の個人評価試験です。筆記試験を行わないか、あるいは筆記試験をボーダーラインの志願者の合否決定をサポートする手段に使っているだけです。例えば、オックスフォード大学の合否判定の主軸は長時間の面談です。1対1で3時間かけた面談を行い、志願者の価値観や人生観など幅広く聞き取り、アカデミアで成功するために必要な創造力を見極めています。
米国のアカデミアでは、志願者にエッセイを書かせます。専門に関する小論文ではなく、抽象的なテーマが指定されるだけで、そこから2〜3時間をかけて書いた自らの考えが評価の対象になります。独創性の感じられない記述内容では評価されず、自分らしく思ったことに振り切った内容を書かなければなりません。フランスではサイエンス系の学部であっても哲学の問題が出題されます。そのテーマに向かって真摯に答えることで研究者に求められる人柄や創造性が判定されるのです。
日本はこれまで一部を除き、筆記試験だけで入学者を選別し、それでも世界に通用する研究者を数多く輩出してきました。しかし、創造性を見極める入試にシフトすることで、さらに効率的に優秀な研究者をアカデミアに迎え入れることができるようになると思います。
博士・ポスドクへの応援メッセージをお願いします。
研究に限らず、楽しくなければ、物事に集中して深く取り組み、ゴールに到達することはできません。苦労や苦難を乗り越えられず、途中で挫折してしまうからです。故に、自分が惚れ込んだテーマやストレスのない環境を探し出して、研究に没入して下さい。今いる研究環境に満足していなければ、現状に固執せず、思い切って飛び出していくことも有効です。
博士課程を修了した(もしくは修了間近の)皆さんには、すでに地力がついているはずです。そこから大きく飛躍できる楽しい研究に出会う努力を怠らず、模索し続ければ、いつか必ず博士人材としてのキャリアは華々しいものになることでしょう。