博士の先達に聞く
民間企業に在籍しながら、博士課程で経営とITを突き詰め、 現在は大阪大学でDX推進を主導する鎗水教授。
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アカデミアで教授のポジションに至るには、博士後期課程を経て博士の学位を取得した後に助教として大学に就職し、講師、准教授、そして教授へと昇格していくのが一般的であることはご存知の通りです。近年は大学内の教員ポストが就業希望者に比して十分な数ではないことから、テニュア(終身在籍)の立場で採用されるまでに任期制の博士研究員(ポスドク)を経験するケースも数多く見られます。他には、大学卒業後に民間企業へ就職して研究を継続し、そこで深めた専門性が評価されてアカデミアに戻り、教授へと昇格する場合もあります。しかし、こうした連続性のある研究者キャリアが教授職へのルートのすべてではありません。
現在、大阪大学の教授であり、同大学のDX推進室の副室長を任されている鎗水先生は早稲田大学法学部のご出身で、専攻は刑法です。ところが、新卒で就職した大手製造業でITビジネスのマーケティングに関わったことをきっかけに、その後は「経営とIT」というテーマを突き詰めるキャリアを歩まれました。そして、MBAを取得するために、企業に所属しながら研究を続けられ、母校の早稲田大学大学院商学研究科にて博士後期課程における所定の単位を取得されました。
こうした鎗水先生の博士人材としては一見非連続な、特有のキャリアを高く評価したのが、旧帝国大学7校の中でも特に産業界との共創活動が活発な大阪大学でした。そこで今回は、大学におけるDX推進の第一線で活躍する鎗水先生に、博士人材が有する能力と、博士人材の果たすべき社会的使命、博士人材のキャリア形成などについてのお考えを伺いました。
* OUDX:Osaka University DXの略称
* D3:「Digital design(情報をデータ化・使えるように)」、「Datability(高度かつ膨大なデータを解析・使いやすく)」、「Decision intelligence(様々な意思決定を支援する)」の略称
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(掲載開始日:2025年1月16日)
鎗水先生が取り組んでおられる大阪大学のDX推進をご紹介下さい。
現在、私は大阪大学のDX(デジタル・トランスフォーメーション)推進リーダーとして、大学全体の教育・研究・経営へのDXを主導しています。2022年10月にOUDX推進室の副室長に就任以降、様々な取り組みを積み重ねてきましたが、そうした成果がOUID(Osaka University IDentity)に結実しつつあります。OUIDとは、一人の学生の入学前、在学中、卒業後以降を、一つのOU人財データプラットフォームで終身サポートする生涯IDシステムであり、大阪大学の2万4000人の在学生に加え、OBやOG、教職員もカバーします。
ID管理のインフラとなるのは顔認証入場システムで、OUIDに登録した顔写真と本人の映像を照合することで研究室や会議室等のセキュリティを実現します。また、登録した顔写真はスマホアプリ化されたデジタル学生証や教職員証とも連携し、学生証紛失やデータ更新の際の再発行の手続きを簡素化します。
このID管理をベースに、学生たちに提供できるサポートサービスは、無限に広がります。まずは入学前の受験希望者に入試情報や大学の情報をオンラインで提供することにより、理想とする学生の獲得に繋げます。そして入学が決まった学生に正式にID登録をしてもらい、ここから本格的なサポートがスタートします。遠隔授業やテストの実施、教材や資料のオンライン提供、出欠・テスト結果・成績管理といった教育支援、また、大学図書館の自動貸出機利用、証明書類のコンビニ発行、進路相談・就職支援に活用されます。さらにはゼミ・研究室に所属する学部生および大学院生への研究活動の促進・支援や論文等の成果物管理・成果の外部訴求、学内の研究者同士の連携促進(分野・領域を超えた新たな出会いの創出支援)、そして卒業後は産学連携コミュニケーションやリカレント教育のサポートなどを実施予定です。
このOU人財データプラットフォームは大学内部に閉じたものではなく、本人の了承を得るだけでなく法的・倫理的なチェックを受けた上で匿名化した人財情報の活用を行うことも想定しています。学部生に対しては専攻内容を把握した企業側からの就職オファーにつながり、大学院生に至っては研究内容を深く知ることで適切に評価した企業から、在学中では共同研究・共同開発のオファーや研究自体への支援、学位取得前後では研究者や技術開発者としての採用オファーが考えられます。そうした出会いが起点になって、企業との共同事業がスタートするかもしれません。そして、卒業後もこのOU人財データプラットフォームに研究情報を残すことで、研究者データベースとして活用されます。このようにOUIDは、大阪大学の学生のキャリアの価値最大化や最適化を大きく支援する終身プラットフォームとなり、さらには大阪大学内における人的ネットワーク強化を実現することによる大学経営の基盤進化を目指しているのです。
OUIDは大阪大学において段階的に導入を進めていますが、私はいずれこのプラットフォームをパッケージ化し、大学をはじめ他の教育機関にも提供することによる収益モデルを構築し、事業化するという構想を持っています。大阪大学にはこのOUIDを進化・発展させていく優秀な人材や研究リソースに事欠きませんし、大阪大学における情報工学研究の一端を担うことができると考えています。
鎗水先生が現在の教授職に至るまでの経緯を教えて下さい。
1994年に早稲田大学の法学部を卒業し、新日本製鐵(現:日本製鉄)に入社した私は、最初は法務部に所属し、その後にIT系子会社に出向。最初の2年間は物流と調達の業務を行い、次の3年間を大判プリンタのマーケティングに従事しました。つまり大学の学部時代はITリテラシーに関しては素人同然であり、社会人になってからITビジネスに触れたのです。当時はWindowsの登場によってパソコンが一般に普及し始めた頃であり、私も秋葉原でパーツを買い集めてパソコンを組み立てていました。
その後、2001年に新日本製鐵に戻って、引き続きサーバーやネットワークなどITインフラに関するマーケティングや営業を担当しました。ところが自分が提供しているITサービスが、お客様が投資して頂いている金額にふさわしいビジネス価値があるのか、確固たる自信を持つことができませんでした。この頃から、莫大なIT投資が果たして経営の成功に寄与するのか、あるいは経営を大きく前進させるITとはどのようなものであるのか、といった命題について深く考えるようになっていたのです。そこで新日本製鐵に在籍しながら、MBA(経営学修士)の取得を念頭に母校である早稲田大学の大学院商学研究科に進むことにしました。
修士・博士課程には2007年から2018年まで11年に亘って在籍しました。修士課程ではインドのIT企業を題材に、経営とITに関する本質を見極める研究等を行う他、経営のフレームワークを理解し、ビジネスプランニングのリテラシーを身に付けました。また、併行していた私の社会人キャリアにおいて、この11年の間には大きな変遷がありました。まずはITで経営に価値を提供する仕事を志向して、新日本製鐵を退職してITコンサルティング企業に転職。その後はその後は長期・ユーザー視点に基づきITで自社経営に貢献したいと考え、大手機械部品メーカーの情報システム部門のディレクターに再度の転職をしたのです。
この機械部品メーカーではグローバル基幹システムの再構築という大型プロジェクトに悪戦苦闘しつつ事業を大きく発展させる経営手法に触れることができ、問題の本質を捉えて対策していく経営改革について深く学ぶことができました。そして、ここに至って私自身の中に、ようやく経営課題を先端ITで解決に導くための基本メソッドが出来上がってきたのです。その考え方や手法は、現在のOUDX推進に通底するものでした。
結局、博士後期課程における所定の単位を取得したものの、多忙を極めていたこともあって博士の学位は未取得のまま大学院を離れました。それでも2022年に縁があってDX推進者を募集していた大阪大学で、OUDX推進室およびサイバーメディアセンターの教授に着任したのです。博士課程での経営とITの本質的な関係に関する研究を評価下さったとともに、従来から産業界との共創が極めて強く、准教授から教授を採用する慣習にも囚われず、最適解の施策をためらわずに打つ大阪大学らしい、民間からの教授登用だったと言えるのではないでしょうか。
社会が博士人材を必要としている背景をどのようにお考えですか。
海外を訪問すると痛烈に感じられるのは、以前に比して自動車産業以外の日本企業の存在感が無くなっていることです。グローバルマーケットで戦っている企業が少なくなっているのです。言い換えれば、外貨を稼げる企業が減少しているということです。このままでは貿易立国を標榜してきた日本の将来は危ういと言わざるを得ません。それを打開するには、世界で競合が追いつけないような差別化を進めていく人材を大量に確保していく必要があります。
その第一の候補が、博士人材であると私は考えます。博士人材は自ら研究対象となるテーマを決め、それを突き詰める世界最先端の研究に挑み、やり遂げて一定の成果をあげることで学位を取得しているからです。ただ、決して大学院時代のテーマと、企業で進めるグローバル競争を勝ち抜くためのテーマが一致していなくても良いと思います。これは企業側に提言したいのですが、博士人材はポテンシャルが高い人材が多いので、まずはその価値を十分に引き出す環境やミッションを提供することが重要です。上手くマッチングすると、想定を超えた国際競争力を引き寄せる成果が見込めるはずです。
鎗水先生が兼務されているキャリアセンターでの活動をご紹介下さい。
前任者を引き継いでキャリアセンターの教授を兼務するようになってまだ半年少々しか経っていないこともあり、キャリアセンターでの成果はこれから見えてくると思います。私がこのセンターで担う役割は、2万4000人の学生へのITを活用したキャリア支援になります。当然、OUID・OU人財データプラットフォームがそのベースとなります。学生本人に最適なインターンシップのマッチングといった企業就職サポートや、本人の専門性を把握した上で実施できる大学院への適切な進学アドバイス、さらには学外の研究機関と学生の双方向の紹介等、多岐に亘る取り組みを構想しながら、OUIDの本格導入と併行して、実現に向けて進み始めています。
博士・ポスドクへの応援メッセージをお願いします。
前述のように、博士人材は自ら選んだテーマを突き詰めて世界最先端の研究した人たちであり、日本社会の宝です。博士人材の方々には、自分が取り組んできたことに自信を持ち、勲章だと考えて下さい。その価値は、必ずどこかで高く評価してもらえるはずです。そこに辿り着く手段として、産業界に転身するのも有効な手段です。私自身の経験上、大学院で学んだ、あるいは獲得したスキルを社会的な価値に結びつける場所としては、企業活動の最前線が最適です。もしそこに身を置いたならば、理論と実践を行ったり来たりする中で徐々に成果が見え始め、それが産業界からの高い評価につながっていくことでしょう。
また、大学の中の限られた人脈とは異なり、産業界には様々な価値観を持った人材と出会う機会がふんだんにあります。そこで刺激を受けるだけでなく、自分の強みを引き出しつつ足りない面を補い合うことも可能です。
一方で、博士の学位を取得後にそのままアカデミアに残るという選択肢にも研究をさらに深く探求するというメリットがあります。もちろん、キャリアの途中でアカデミアから産業界に転身したりその逆を選んだりするなど、立場を置き換えることも有効です。研究者や専門人材として納得できるキャリアを歩むパターンは、博士人材の数だけあると考えられます。博士人材が持つ可能性を、ぜひ自ら選んだ場所で発揮して下さい。