エリートネットワーク - 正社員専門の転職エージェント 博士の転職は正社員専門のエリートネットワーク

博士の先達に聞く

地球規模の水循環に関する研究で気候変動問題に卓越した洞察からの提言をされ、国際的に権威のある沖教授が語る博士人材の本質的価値とは。

Interview

沖先生の研究内容をご紹介下さい。


IPCCの第6次評価報告書から、研究成果が反映され、河川や人間社会の水利用を含んだ水の循環が示されています。夏目漱石の作品の舞台ともなった東大構内の「三四郎池」も地球の壮大な水循環の要素です。

水文学は、天体に関するあらゆる現象を扱う天文学と同様に、水に関する森羅万象を扱う学術領域です。地球上の水循環を主な研究対象とする地球科学の一分野として見られていますが、その裾野は広く地球物理学や自然地理学、化学的な水質研究、生物学における水利用の考察、利水・治水を追求する農学や工学的アプローチ、さらには人間活動の影響や水利権など人文科学系にも研究は及びます。このように対象がとても広い水文学の中で私がフォーカスしているテーマは、空気中の水蒸気や地表面・海水の水分のみならず、世界の主要河川の水分までもパラメータに取り入れた、地球規模の水循環です。

温暖化など気候変動に関する世界的な関心は数十年前から高まっており、1990年にはIPCC*が第1次評価報告書を公開しました。ところが、そこに記載されていた気候システムの模式図に河川が描かれていなかったのです。そこで私は地表に降った雨が地面に染み込んで地下水となったり大気に蒸発したりするだけではなく、河川に集められて海へと流れる過程を追加した地球規模のモデルを8年後に構築しました。実は河川が地球環境全体の変化に及ぼす影響は小さく限定的です。しかし、気候変動は河川の増水による氾濫や渇水にともなう干魃(かんばつ)などの甚大な災害に直結します。私は気候変動の予測情報を身近な水災害に翻訳する必要があると考えたのです。

*気候変動に関する政府間パネル : 気候等に関する国際的な専門家で構成された、地球温暖化についての科学的な研究成果を評価・適応するための、学術的な政府間機構。国際連合環境計画と世界気象機関の共同で設立された。

沖先生の研究成果の世界的インパクトはどのようなものですか。


次世代に対する責務として、水にまつわる課題について、多様な視点を持つ有識者や実務家等と議論を重ね、提言した「水みんフラ—水を軸とした社会共通基盤の新戦略—」のポスター。東京財団政策研究所の研究主幹として「未来の水ビジョン」プログラムをまとめました。

2021年から2023年にかけて発表されたIPCCの第6次評価報告書には、河川や人間社会の水利用を含んだ水の循環する模式図が掲載され、気候変動による水のリスクが世界中でどのように影響するかまで記載されるようになりました。温暖化が進んだ場合の洪水の損害予測なども示されています。こうした内容の深化には、私達の研究成果が大きく反映されています。私達が公開した理論やビジョンは、世界の水文学の中で定説に近い存在になり、海外各国の水文学の最新の研究発表の中で、私達の論文や書籍の一部を引用されることも多くなっています。米国プリンストン大学をはじめとする欧米の大学からは、私達の研究室に学生を受け入れて欲しいという要望も来ます。また、2022年10月に横浜で開催されたノーベル・プライズ・ダイアログ東京2022でも、2024年6月にパリで開催されたユネスコ政府間水文学計画(IHP)のシンポジウムでも、私は冒頭で講演をさせて貰いました。


現在は、私が作り上げてきた水循環の新しい常識をベースに、より具体的な取り組みを行う段階に移行しています。この基礎には、30代から40代にかけて次々と新たな水循環の研究解析で成果を上げていたことがあります。今回のストックホルム水大賞の受賞も、2024年度の紫綬褒章(しじゅほうしょう)の受賞も、評価対象となったのはその当時の功績と言えるでしょう。その意味で、今回の各受賞にて過去の成果を認めて頂いたことも嬉しいですが、若い頃に書いた論文が広く読まれてきた喜びもまた大きいかもしれません。

沖先生の研究室に在籍している博士人材は、社会的にどう評価されていますか。

私がPI(主宰者)として率いる河川研究室は、学部4年生から修士課程や博士課程の学生、ポスドクまで約25名が所属し、さらに6名の教授、准教授、助教、上級研究職の方々が参加しています。その多くが各人それぞれの水文学研究に携わっていて、この先も河川研究室に残って長期的に水循環や気候変動の領域を極めていこうとしている訳ではありません。一部の方は本学で私の研究を引き継ぐことになるかもしれませんが、大半の方は独自のキャリアを描き、現在の研究で未来につながる知見の獲得に邁進しています。

元より本学の社会基盤学科は卒業生・修了生の進路が多彩です。かつては国土交通省や鉄道・道路、ゼネコン等といった本道とも言える就職が大半でしたが、私が学生の頃には銀行や証券会社、大手広告代理店に進む同僚も増え、近年では外資系戦略コンサルティングファームへの就職やソフト開発会社をスタートアップする学生も見られます。ただ依然として、中央官庁への入省者や本学及び他校でアカデミアに残る学生も多いですね。

特に私の研究室に所属する博士人材は、社会が要請する課題解決のために予め用意された研究テーマではなく、好奇心の赴くままに自ら研究テーマを選び取って進路を切り開いていく傾向が強いようです。そして、新たに切り開いた研究成果が結果として社会課題の解決にも大きく貢献しているケースが多いように思います。多彩な進路先から評価されているのは、水文学に関する専門性ではなく、未知の事象に挑戦するほとばしる意欲とそこで得た課題解決スキルです。大学院で新しい取り組みに挑戦することは、テーマに対してどのようにアプローチしていくかを自ら考えるマインドセットと、着実に研究を進めていくノウハウを得るためのトレーニングに他なりません。私の研究室に所属する博士人材及びPh.D.の学位を目指している学生は、知的好奇心を持って挑むテーマを自ら見つけ、アカデミアでも産業界でも中央官庁でも活躍できる“研究のプロ”になるためのキャリアを歩んでいると言えるでしょう。

博士・ポスドクのキャリア形成についての助言をお願いします。


博士人材は研究のプロとなるためのトレーニングを積んでいるので、拘ってきた専門分野外であっても、チャレンジすれば世界水準に追い付き成果を出すことが出来るはず。

一方で、私は最終的に博士人材が世の中に貢献できる研究成果を残していくには、自分が過去に取り組んだ研究テーマに拘り続けない柔軟性も大切だと考えます。自分で決めたテーマに拘れるのは、極めて幸運な状況に限られ、就職した先から給料や研究費を貰う立場の研究者になれば、社会や会社側の意向と自分の意向に折り合いをつけざるを得ません。また、そうした社会や企業側の意向には発展の可能性を秘めたシーズや、喫緊の解決ニーズが備わっている可能性が高く、一定の制約は価値のあるものとも考えられます。

研究のプロになるためのトレーニングを積んでいる博士人材であれば、拘っていた研究テーマから全く異なるテーマに外部の都合でチェンジしたとしても、数年で世界トップクラスの水準に追い付き、成果を上げられるはずです。全く新しい挑戦であっても、与えられたテーマの中に興味の対象を発見していくことで、研究に没頭することができます。
私も土木工学科の学生時代、所属する研究室を選ぶ時に志望したのは水文学ではなく、同じ学科の交通計画論でした。ところが定員をオーバーし、他の志望者にジャンケンで負けたことから次善の選択で水文学と向き合うことになったのです。その後、1982年に起きた長崎豪雨の被害の深刻さを知り、水害を減らすには雨の降り方を調べる必要があるのではないかと考え、卒業論文のテーマに水害を選択し、多くの文献を深く読み進めました。その頃は交通計画論への興味は既に霧散していたと思います。このように意図せず研究テーマの変更を余儀なくされた私だからこそ、学問は何をやっても面白いとはっきり言えます。ちなみに、交通計画論を志望したのは「人間行動のニュートンの法則を見つける」という当時の交通計画論の先生の言葉に惹かれたからでしたが、水と主観的幸福度や行動経済学に関わる研究をしてくれる学生さんも最近はいて、基本的な関心は持続している気もします。

もう一つ若手の博士人材に助言したいのは、博士課程を終えてPh.D.の学位を取得した後、次のステージに移って研究者として大きく飛躍するために、今のうちに膨大な文献を読み込んで自らの知の体系を築いてほしいということです。自分は何が解っていて、何が解っていないのかを知り、それに加えて断片的に獲得した知識の数々についてその連関を把握していくことで、後の研究を効率的に進められます。産業界に飛び込んで重要なポジションに就けば自由になる時間が少なくなって大量の論文を読了するのが難しくなりますし、年齢を重ねると徐々に集中力が続かなくなり、知識の吸収力も低下します。大学院で研究に取り組む若いうちに多くの論文を渉猟し、その後の研究の土台となる知識体系を創り上げて下さい。

博士・ポスドクへの応援メッセージをお願いします。


研究テーマを変えることを恐れず、与えられたテーマに挑戦し、突き詰めて、面白さを経験してほしい。私がジャンケンに負けて、望んでいなかった研究室でも好きな学問を突き詰めてきたように。

アカデミアのテニュアなポジションや、産業界で安定したポジションに就くまでは、博士人材の方々は将来に対する不安を抱えることがあるかもしれません。研究者のキャリアをこの先も歩めるのか、今取り組んでいるテーマは社会に役立つ成果に結実するだろうか、経済的な面で安定する状況は訪れるのだろうかといった葛藤を持つ人は少なくないはずです。でも私は真理を追求する学術に対する憧れがあり、小さな成果でもそこに喜びを感じられるなら、いつかあなたを輝かせる場面が訪れると確信します。私も東大の生産技術研究所に勤務していた頃、所属が工学系の研究所でありながら自分自身の研究が社会貢献につながる手応えが薄く、恩師に「すぐに役立たないことをやっていて良いのでしょうか」と尋ねたことがあります。その時に恩師は「いずれ役に立つ時が来る」と助言を下さいました。恩師のその言葉に本当に救われたと思いますし、日々の研究を進めていく中で憧れの先生に会える喜びがあったり、知的好奇心を満たす機会が数多くあったりしたことで、アカデミアの研究者を脱落することなく継続することができました。そうして水循環の研究に邁進していると、やがて気候変動や水の問題が世界的に注目されるようになり、私の研究内容は徐々にグローバルで耳目を集め出し、日の目を見ることになったのです。

私が学部時代の研究室決定のためのジャンケン以降、今日に至るまで水文学を継続できた背景には「運」があったかもしれません。でも、先に申しましたように、博士人材の本質的な価値は、難度の高い研究テーマに挑戦し、それをゴールまで導くトレーニングをしっかりと積んでいることです。時に大胆に研究テーマを変えることも恐れないで下さい。与えられたテーマがあれば、それを突き詰めていく中に面白さを見つけ出して下さい。そうしたステップを踏んでいけば、たとえ望外の幸運に巡り合えなくても、あなたの博士人材としての価値はどこかで必ず認められるはずです。追い風も吹いています。日本国内のマーケットが拡大を望みにくい中で企業活動の海外進出が進んでいますが、欧米の産業界では企業経営者や、ものづくりの先頭に立つ研究開発の人材、ビジネスを企画するような知的マネジメントを担う人材などのほとんどは、Ph.D.を持っています。必然的に国内の博士人材も注目され、評価され、登用されることになるでしょう。何の専門家であるのかは問題ではありません。やはり、問題解決の手法を身につけたエキスパートとして尊重されるのです。自分自身が高度知的人材として培った能力を狭い範囲の専門分野に押し込めず、新たな分野・領域にも視野を広げながら解き放ってはいかがでしょうか。そうした展開の中から、私以上に世界的評価を獲得する博士人材が続出することを期待しています。

本日はお忙しい中、長時間に亘りご協力頂き、ありがとうございました。

※この記事の所属・役職・学年等は取材当時のものです。