産業界で活躍する博士インタビュー
新たな社会価値の創出を目指す株式会社メルカリで、 AIで未知の扉を開き続ける研究開発組織「R4D」所長 小堀 訓成 氏。
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国内最大のフリマアプリである『メルカリ』やスマホ決済サービス『メルペイ』を運営する株式会社メルカリ。誰でも安心して簡単に個人売買が出来るECプラットフォームを社会に送り出したことにより、今日では多くの方がメルカリのサービスを利用したことがあるでしょう。しかし、同社はECサイトの運営だけを事業目的としているわけではありません。「あらゆる価値を循環させ、あらゆる人の可能性を広げる」というグループミッションを掲げ、あらゆる価値が循環するエコシステムの創出を目指しています。その一環として、2026年6月17日(米国現地時間)には、米国で世界共通アプリ「メルカリ グローバルアプリ」の提供を開始しました。
そうしたメルカリの先駆的なEC事業を最新の技術で支えているのが、同社の研究開発組織であるR4D(アールフォーディー)です。R4Dでは、AI、量子情報技術、価値交換工学、ELSI(倫理的・法的・社会的課題: Ethical, Legal and Social Issues)、アクセシビリティな ど、多様な領域で産学官連携による研究と社会実装を進めています。
以前から生成AIや大規模言語モデル(LLM)をはじめとするAI技術の急速な発展を見越し、生成AIを活用した出品・検索・マーケティング機能の強化や、AIによる社内業務の効率化や全社員のスキルアップ施策、生成AIガイドラインの策定などを推進。AIを事業成長の原動力とする取り組みを重ねています。 今回は、そんなR4Dを統括する所長であり、技術リーダーを担っておられる小堀訓成氏に、メルカリそしてR4Dが博士人材にどのような期待をされているのか、お話を伺いました。
また、小堀氏自身も早稲田大学大学院理工学研究科で修士の学位を取得後にソニーに入社。その後はトヨタ自動車で研究者として活躍する傍ら、名古屋大学の社会人博士課程を経て学位を取得した、情報科学を専門とする博士です。 このように、小堀氏は博士人材の目指す理想的なロールモデルの一人といえる歩みを重ねてこられたことから、併せて今日までの研究者としての姿勢、想い、重要なターニングポイント等についてもお聞きしました。
(掲載開始日:2026年7月23日)
小堀氏がR4Dで実現しようとしている未来技術をご紹介下さい。
メルカリの研究開発組織であるR4Dは研究開発(Research and Development)にとどまらず、未来の社会に実装される(Deployment)ことを想定したデザイン(Design)を行い、ときには既存概念や技術を破壊しながら(Disruption)、新しいものを生み出すことを目指した研究を行うという4つのDの意味が込められています。
メルカリが独自の研究開発組織であるR4Dを開設した背景には、「あらゆる価値を循環させ、あらゆる人の可能性を広げる」というグループミッションを、先進技術の研究とその成果の実装で推し広げるという目的があります。そのため、R4Dの役割は単純なフリマアプリの改良やサービス機能の拡張には留まりません。現在のメルカリの基幹ビジネスはもちろん、メルカリを取り巻く事業環境を形成する社内外のステークホルダー全般にわたってそのポテンシャルの進化と発展を支援・牽引し、より良い社会の実現に寄与することを念頭に置いています。
例えば、AIによるECのバックボーンとなる物流の進化にも挑んでいます。2026年3月には、AWS ジャパンが実施する「フィジカル AI 開発支援プログラム」に、私たちのRobotics/AIを活用したマーケットプレイス事業における出品工程の自動化の研究が採択されました。
また、最近になって経済産業省及びNEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)が主導する「GENIAC:ポスト5G情報通信システム基盤強化研究開発事業/競争力ある生成AI基盤モデルの開発」で、私たち独自のプロジェクトが採択されました。その内容は、フリマアプリ上に蓄積された40億件以上の出品データを中心に膨大な商品情報をAIが学習し、曖昧な情報を精査してアプリユーザーの意図に寄り添った商品検索を実現するというものです。
他にも幅広い研究開発分野の社会実装に挑戦しているR4Dでは、AIの進化に伴って顕在化してきたAI倫理、生体認証技術、データビジネスにおけるプライバシーといった「ELSI」に対する研究の重要性を深く認識し、大阪大学社会技術共創研究センター(ELSIセンター)と共同研究を進めています。
AIの最前線を牽引するに至るまでのキャリアを教えて下さい。
私は物理を学びたいと考えて早稲田大学理工学部(現:先進理工学部)の物理学科に入学したのですが、3年生の途中までは授業のほとんどが数学であったことから、「数学をどう使っていくのか」と、将来の具体的な就業イメージを描くことができませんでした。授業にも身が入らず、成績も低迷していました。そんな私の転機となったのは、3年生になってからの生物物理との出会いです。生体内の構造や生命現象を物理学的なアプローチで解析するこの分野への深い興味を皮切りに、脳や神経による生体内の情報伝達と情報処理をテーマとするニューロサイエンスにも関心が広がったことから、それまでとは授業に向き合う姿勢が一変しました。それをターニングポイントとして、私は修士課程に進み、ロボットの研究に挑むことを決意したのです。
そして当時からすでにロボティクスの権威であった橋本周司教授の研究室を志望しましたが、その研究室は非常に人気が高く、必ずしも成績上位ではなかったことから、研究室に入るのは、大きな挑戦となりました。しかし、面接では「自分が何に興味を持ち、何をやりたいのか」をありのまま包み隠さずに伝え、研究室に入る機会を得ることが出来ました。
研究室では、強化学習やメタ学習につながるテーマに取り組みました。私が強い影響を受けたのは、先生が持っておられた先見性と哲学です。単に流行している技術を追いかけるのではなく、「複数の要素が集まった時に、全体として知的に振る舞う仕組みをつくれないか」といった、より根源的な問いを投げ掛ける研究姿勢がありました。
修士の学位を取得後に、私はソニーに入社しました。同社を選んだのは、世界に先駆けてペットロボットであるaiboを発売するなど、ロボティクスビジネスの先頭を歩んでいたからです。しかし私が配属されたのは、CCDやCMOSといった画像センサーの製品企画でした。画像センサーはロボティクスを形成する重要なパーツではありますが、1年目から担当したのは基礎研究ではなく、ユーザーであるカメラメーカーと商品企画や品質企画、生産計画について協議・策定するといった業務内容でした。
それでも品質保証や生産調達などまで含めた工業製品のプロセス全般と接点を持てたのは、貴重な経験になりました。しかし、その後にソニーが本格的なロボット開発から撤退することが決まったため、ロボティクスやAIの研究に従事出来る機会を失ったと感じ、新たなステージを探すことにしました。
そのタイミングで視野に入ったのが、2005年の『愛・地球博』でロボット技術をPRしていたトヨタ自動車です。当時からロボティクスによる自動車の生産工程の自動化を進めていたトヨタ自動車ですが、少子高齢化を迎える社会をロボット技術で克服しようとの考えに共鳴したことにより、希望通りの研究員として採用されました。
こうして入社したトヨタ自動車では、自動運転技術など多彩な研究領域に携わりました。36歳の時に出向した、ベルギーのToyota Motor Europe NV/SAでは、トヨタ生産方式として世界に知られるTPS(Toyota Production System)とAIを組み合わせたAI/TPSを実現し、品質管理の精度を支える分析の解像度の向上に貢献することができました。
R4D所長就任前は、ウーブン・バイ・トヨタ株式会社で、ウーブン・シティ(静岡県裾野市)のAI領域の責任者として、スマートシティが目指す未来都市の理解に向けたマルチモーダル基盤モデル(City-LLM)※1 や国際的なワークショップ(AI City Challenge※2)などを主導しました。
※1 マルチモーダル基盤モデル(City-LLM)は、街頭カメラ、車載カメラ、各種センサーから得られる「映像」「位置情報」「言語」を統合的に学習・解析し、実世界の時空間や人間の行動を高度に理解するAIモデル
※2 AI City Challengeは、スマートシティの実現に向けて、人工知能(AI)やコンピュータビジョン技術を競い合う世界最高峰の国際画像認識コンペティション
社会人博士に進むまでの経緯や、学位を取得する価値についてお話し下さい。
トヨタ自動車の在籍時、私は名古屋大学の社会人博士制度により博士後期課程に通いました。ただ、その頃は博士の価値を明確に認識していたわけではありません。当時の上司が理化学研究所出身の博士であり、周囲の研究者たちの多くも博士の学位を取得済みであったことから、研究者のキャリアを歩み続けるには取得した方が良いステイタスとなるかもしれないという感覚があったのです。それに加えて、名古屋大学には直接学んでみたい教授が在籍していました。画像認識技術の領域において、最もサイテーション(論文引用)が多かった大学院情報学研究科の村瀬洋教授です。そうして村瀬先生の元で、自動運転技術に高精度の位置推定性能をもたらすことを目的とした画像認識技術の研究に取り組むことにしたのです。
取り組んだ研究テーマは、一つはGPS信号の届かないトンネル内や地下通路等であっても運転中の自動車の現在位置を正確に測定する画像認識技術です。事前に用意されたマップと慣性センサーのデータを照合する従来方式ではなく、自動車に搭載されるカメラで次々に収める画像フレームごとのデータのつながりと、慣性センサーのデータを照合して、より正確な位置情報につなげる技術でした。もう一つの研究テーマは、空間の中の物体の姿勢推定を行う技術の確立です。X軸・Y軸・Z軸に加え、回転姿勢を示すロール・ピッチ・ヨーの、併せて6つの次元のデータを検出・照合することで、ロボットの制御精度を上げるのが目的でした。
これらの研究成果を論文化して博士号に結びつけるには、6年ほどかかりました。トヨタ自動車内での自動運転のパフォーマンス向上に関する多忙な研究開発業務と同時並行していたためです。毎日のように長時間の業務をこなしながら、何とかプライベート時間を捻出して博士研究に充当していました。
こうしてトヨタ自動車での企業内研究と、それとは異なる博士課程での研究の両立にかなりの苦労を重ね、2017年に博士の学位を取得。入学前は一つの研究者ステイタス程度に捉えていた博士号でしたが、村瀬先生の元で研究を重ねていくごとに、博士号を獲得する意義や価値の大きさに気づき始めました。基本的に研究テーマが指導教授によって設定される修士課程とは異なり、自らテーマを探り出し、そこに価値を見出しながら、独自の研究アプローチで成果を開拓し続け、最終的に他者に説明出来る論文に取りまとめるのが博士後期課程における研究過程です。そこには困難な課題を克服するマインドを養い、研究者としての真の実力を磨き上げるスキルアッププロセスがあると強く実感したのです。
以上から、研究者や技術開発者のキャリアを歩むのであれば、博士の学位取得は不可欠とも言える重要なステップだと、今は考えています。メルカリでは、職務内容を超えて博士人材を重要な研究場面に積極的に登用していく流れにあります。すでに私の他にも何名もの博士人材が活躍しているR4Dでも、この先さらに多くの博士人材を確保していく予定です。現実的な施策の一つに、メルカリには社員の博士号取得を促進するための「Mercari R4D PhD Support Program」という、2022年から導入されたR4D運用の社会人博士課程支援制度があります。
その支援内容は3つに分けられます。1つは年間上限額200万円程度の3年間の学費支援です。
2つ目は、業務時間を週に0日・3日・4日 ・5日から選択でき、研究と業務のバランスを個人でデザインすることが可能な研究時間選択支援制度です(給与は稼働時間に応じて支給されます)。
3つ目がR4Dのサポート。R4Dが持つアカデミアにおける知見や繋がりを活用し、研究内容や博士課程の受け入れ先に関する相談、メルカリの取引データ等機密情報の研究利用に関するサポートが用意されています。また、支援する対象は日本国内の大学の博士課程で、研究領域は不問。R4Dの研究領域に限らず、人文社会学系や学際系の研究でも応募は可能です。私は名古屋大学で研究時間の捻出に相当な苦労をして博士の学位を取得しましたが、この点に関して当制度には対象者の社員に過度な負担をかけないように配慮が施されています。
博士人材へのメッセージをお願いします。
私がトヨタ自動車を退職してメルカリR4Dへの転身を決意したのは、第一にメルカリに息づくスタートアップマインドに惹かれたからです。移籍前はトヨタ自動車が先進実証実験の場として展開中のウーブンシティの開発を担うウーブン・バイ・トヨタにおいて、AI領域の責任者を務めていました。そこには国内外から多数の優秀な研究者が集結し、トヨタ自動車という実績と資本が豊富な世界的企業の重要戦略事業を集団的に推進していたのです。その中でAI研究に関する一定の成果を挙げた私は、新たなステージへの意欲が高まりました。
スタートアップマインドを1つの原動力として、新しいビジネス創出までを行いたいと考えました。こうして選んだのが、設立から数年で今までになかった大規模なCtoCのフリマ市場を築き、今も世界に向けた大胆な挑戦を続けるなど、スタートアップマインドが息づくメルカリだったのです。
私にとって、このようにステージを変えながらも新たなテーマの扉を開けたいという想いが、これまでの研究者人生最大の原動力です。博士人材は、博士後期課程で自ら選択した研究テーマを追求して論文という成果にまとめ上げた経験と実力を持っています。皆さんも、高い研究意欲を引き寄せて成果に導くために、広く視野を持って自らの興味が向くテーマの扉を開き続けて頂きたいと思います。