産業界で活躍する博士インタビュー
博士のポテンシャルを最大限に引き出す就労環境と制度を整え、 多様な領域で世界的な研究成果を上げている東レ。
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軽量かつ高強度の素材特性により航空宇宙産業や自動車産業に技術革新をもたらしている炭素繊維でグローバル市場を牽引する他、様々な合成樹脂、フィルム製品、医薬・医療材、そして設立以来の主要製品である合成繊維などの開発・製造・販売で世界的な実績を誇る東レ株式会社。
三井グループの中核企業の1社でもある同社の多様な製品分野における競争力の高さは、先進的な基礎研究への積極的な投資がもたらしています。研究拠点一つ取っても、同社は滋賀県、愛知県、静岡県、愛媛県など全国各地に研究・技術開発拠点を配置し、さらに欧州、米国、中国、韓国、東南アジア、インドにも研究・技術開発拠点を展開されています。
そんな同社の研究部門で活躍する研究者の多くが博士です。今回は、神奈川県鎌倉市にある基礎研究センターを訪問し、医薬研究所長の吉川氏と先端融合研究所長の富永氏に、東レがどのようにして博士人材のポテンシャルを引き出しているのか、そして多くの博士人材を重用されている背景にあるお考えについて伺いました。さらに、博士の学位を取得し、同社の先端研究の第一線で活躍されている4名の若手研究者に、実際に東レでどのようなキャリアを築いておられるのかをお聞きしました。
(掲載開始日:2025年6月24日)
東レは博士人材に対してどのような評価や期待をお持ちでしょうか。

吉川 正人(よしかわ まさひと)氏/理事 医薬研究所長
1986年京都大学大学院博士前期課程修了 1999年京都大学博士(工学)取得
1986年に京都大学大学院を修士卒で入社。基礎研究所に配属され、ポリエステルの原料であるパラキシレンを製造する際に必要となるゼオライト触媒などの研究に従事。その後、愛知県名古屋市と滋賀県大津市の研究所を経てカリフォルニア工科大学に特命留学されました。そこでの成果をまとめた論文で1999年に博士の学位を取得。
2003年の研究・開発企画部に異動後は、管理職として研究マネジメントを行う立場となり、中国の研究所の企画・立ち上げや、米国西海岸の研究拠点開設企画を担われました。その後ケミカル研究室室長、東京のCR企画室長を歴任され、自ら立ち上げた中国研究所での董事長兼総経理から戻られた後、2017年に現職の医薬研究所長に着任。

基礎研究センター(神奈川県鎌倉市)
1962年、鎌倉の美しい丘陵に基礎研究所が開設されました。その後、医薬研究所と改称し先端融合研究所を併設しました。この建物は円谷プロの初代ウルトラマンで科学特捜隊本部としてロケ地になるほど、先進的なデザインです。
吉川氏:医薬研究所は、博士の学位を取得して入社してくる研究者を即戦力だと位置付けています。ここで言う即戦力とは、用意した研究テーマにそのまま入ってすぐに力を発揮できる人に限らず、研究テーマを理解し、自ら進めていく基本スキルを持っている研究者全般を指します。博士は自ら見定めた研究テーマを掘り下げ、その成果を博士論文にまとめ上げ、その内容で評価を得た人材ですから、間違いなく研究者の基盤ができていると考えられます。
富永氏:研究課題を自ら設定し、課題解決策を自ら立案、検証を繰り返し、最終的に成果にまとめて世に問うというPDCAを回せるのが博士人材の強みです。その強みがあれば、研究テーマが変わっても成果を出し続けることができます。ですから、採用面接の際には、その研究テーマを何故やろうとしたのか、どのように取り組んでいるのかを自分の言葉で語っているかを最初に見ます。このような採用活動を続けることで、鎌倉の基礎研究センターでは、研究者の4割強を博士が占めています。
吉川氏:アカデミアの研究者と産業界の研究者との違いは、事業化を意識しているかどうかです。企業の研究者は研究成果をマネタイズする発想が求められ、そこには知財のスキルも必要になりますが、それは入社後の獲得でも十分です。
富永氏:アカデミアとの共同研究や他社との共同開発を積極的に進めるなど、産官学の連携を重視している東レでは、博士人材のアカデミアからの情報収集力や人的ネットワークにも期待しています。例えば先端融合研究所では「先端融合研シンポジウム」という、バイオテクノロジー系の各分野で世界トップクラスの知見を持つ産官学の著名な先生を招いたセミナーを行ってきましたが、そうした先生たちを招聘できるのは、社内の博士研究者たちに大学や学会と密に繋がっている人的ネットワークがあるからです。
研究へのモチベーションが高まる、独自制度の数々。

富永 剛(とみなが つよし)氏/先端融合研究所長
東京大学大学院博士後期課程修了 博士(工学)
1997年に東京大学大学院工学系研究科で博士の学位を取得し入社。最初に配属された電子情報材料研究所で、有機ELディスプレイ用の材料研究に一貫して従事。その後、2014年に韓国子会社に設置された先端材料研究センターのセンター長に着任。2018年の研究・開発企画部への異動後はCR企画室長として研究成果の事業化支援を行う一方、経営企画室も兼務し、ナイロンやポリエステルといった東レの基幹ポリマーの、バイオ原料化やリサイクルといったサスティナブル推進を目指した研究・技術開発戦略立案を牽引、その後、ケミカル研究室長を経て2024年より現職。
富永氏:東レには、「アングラ研究」と呼ばれる、研究者一人ひとりが関心の高い研究テーマに自由に取り組める仕組みがあります。基本的に上司への報告義務はなく、勤務時間の約20%を自由な研究に充てることができる上、研究費の支援まで受けられます。そして、このアングラ研究から多くの大型テーマが創出されました。東レの主力製品である炭素繊維や人工皮革も、この「アングラ研究」を起点に生まれてきたものです。研究者の自発性や自由発想こそが研究の良質な種になるという考えが会社全体で共有されていますから、多くの研究者が「アングラ研究」を通じて大型研究テーマの創出に取り組んでいます。
吉川氏:自由な「アングラ研究」が後の事業の柱をもたらす研究に昇華したり、反対に事業に結びつく要素が全くない荒唐無稽すぎる研究に誰も手をつけたりしないのは、東レの研究者たちの中に「深は新」という、やみくもに新しさを追い求めるのではなく一つのことを深く掘り下げていくと新しい発明・発見があると説く極限追求の信念がDNAとして根付いているからでしょう。
富永氏:他にも研究者のモチベーションを引き出す仕掛けの一つに、研究本部全体で行う「大型テーマ検討会」があります。これは、研究者が「アングラ研究」などで進めてきた内容を、フェローや研究所長たちの前でプレゼンし、その価値が認められたら新事業・大型新製品が期待できる正式テーマに位置づけられるというものです。自ら温めてきた研究テーマに、十分な予算やサポートメンバーが付与され、全社を挙げて推進させることになる仕組みです。意欲的な研究者にとっては、何よりの成果発表舞台と言えるのではないでしょうか。
吉川氏:海外に多数の研究拠点を有する東レですが、研究員のグローバルな活動も継続的に支援しています。海外留学制度もその一つで、その中でも海外特命留学では、研究者がスキルアップしたい分野における最先端知識・技術の習得や共同研究を行うために、世界各国のトップレベルの大学・研究機関に派遣されます。留学派遣先、テーマは派遣者自身で決めることが可能で、1983年以来105名(2025年4月現在)が派遣されました。実は私自身も入社8年目にゼオライトの研究を深める目的で上司に海外留学を掛け合ったところ、カリフォルニア工科大学への特命留学が認められました。
富永氏:以上のように、東レには研究者の自発性や自由な発想を引き出す仕掛けが数多く存在します。博士人材が自らの能力を最大限に発揮できる環境があると自負しています。
一つのテーマの深掘りも、価値の高いテーマへの変遷も、研究者次第。

基礎研究センター内の先端融合研究所にて
写真中央:大森 智織(おおもり ちおり)氏/先端融合研究所 東京大学大学院博士後期課程修了 博士(生命科学)
写真一番左:鶴谷 篤生(つるや あつき)氏/先端融合研究所 東北大学大学院博士後期課程修了 博士(工学)
大学院時代から現在に至るまで、どのような研究テーマに挑んでこられましたか。
大森氏:私は大学の学部時代から認知症に関する研究に携わり、疾患のメカニズムの解明に挑むとともに、大学院に進学してからは主に診断や治療に役立つバイオマーカーの研究を手掛けていました。東レに就職してからも認知症のバイオマーカーの研究を続けていましたが、現在は認知症の治療薬探索に研究内容をシフトしています。理由は、有効なバイオマーカーを追求していく中で治療薬開発につながるデータが得られたからです。当初は「アングラ研究」で進めていたのですが、研究所内発表で評価され研究本部全体で行う大型テーマ検討会に進み、各研究所の所長や、フェローたちの前で認知症治療薬についてプレゼンテーションをしたところ、事業化を想定した正式の研究テーマとして承認されました。入社4年目で大きなチャンスをいただけてうれしかったです。
鶴谷氏:学部時代は微生物燃料電池の研究をしていた私は、大学院に進む際に教授に「植物(フローラル:花の香)の研究に興味があります」と言ったら腸内フローラ(腸内細菌叢)に関する研究テーマが与えられました(笑)。それで始めたのが、飲酒習慣と大腸がんの相関関係を、腸内細菌を通して探っていく研究内容です。その研究を進めていくためにゲノム解析やRNA解析(トランスクリプトミクス)や代謝物解析(メタボロミクス)を統合して行うマルチオミックスの研究手法を習得しました。そしてこの時に学んだ研究手法が、その後の私の研究者キャリアの礎になったのです。実際にそれからの私はテーマオリエンテッドの姿勢ではなく、マルチオミックスの技術を駆使して様々な研究に携わっています。まず、サトウキビの搾りかす原料に糖液を製造するプロジェクト(NEDO(国立研究開発法人新エネルギー・産業技術総合開発機構)国際実証事業)の製造過程で発生するポリフェノール化合物の解析と、廃糖蜜を原料としたエタノール発酵プロジェクトの微生物解析を担いました。次に新規発酵探索チームに配属され、「アングラ研究」とその発表をひたすら繰り返し、そこからペットボトルのリサイクル技術を提案。残念ながらその事業化の妥当性が見えなくなると、今度は繊維素材の原料を微生物を用いて合成する研究を始め、更にCO2を原料とした微生物による繊維原料の研究へと広がりました。この研究はNEDOのグリーンイノベーション基金に採択され、今に至ります。
大森氏:東レには、私のように入社以来どころか大学院時代から現在まで大枠で同じテーマを追求している研究者も存在すれば、鶴谷さんのように価値のある高い研究スキルを活かして多様なテーマに挑む研究者もいます。そこには、研究者個々のポテンシャルやモチベーションをうまく引き出そうとする会社側の柔軟な発想や工夫がありますが、何よりも感じているのは研究者へのリスペクトです。
鶴谷氏:そうですね。上司が研究者を本人のコアコンピタンスを活かせるテーマに導くこともありますし、大森さんのように自発的な「アングラ研究」が正式テーマに認められる機会もふんだんにあります。もしも目の前に取り組むテーマがなくても、何でもやってみようという気概さえあれば、自分が心から打ち込めるテーマに必ず出会える会社だと言えるでしょう。

大森 智織(おおもり ちおり)氏/先端融合研究所
東京大学大学院博士後期課程修了 博士(生命科学)
北海道大学薬学部薬学科(6年制)を経て、東京大学大学院博士後期課程に進学。学部時代より一貫してアルツハイマー病のバイオマーカーに関する探索研究を進め、その成果を論文にまとめて博士の学位を取得されました。博士後期課程において研究を進める傍らで東レへの就職を決めたのは、総合化学メーカーであることから様々な領域に研究の幅を広げ、製薬専業メーカーよりも自らの研究者としての可能性を最大限に膨らませられると考えられたとのことです。

鶴谷 篤生(つるや あつき)氏/先端融合研究所
東北大学大学院博士後期課程修了 博士(工学)
東北大学工学部 化学バイオ工学科に物理専攻で入学。微生物燃料電池の電極の研究に関わった経緯から生物の研究に興味を持ちました。修士から始めた腸内細菌の遺伝子配列の解析を行う過程で、マルチオミックスの研究手法を獲得。博士後期課程2年目、産学協働イノベーション人材育成協議会(C-ENGINE)を通して参加した東レの博士長期研究インターンシップをきっかけに、BtoB事業を牽引する同社の研究に携わりたいと考え入社に至りました。
社会に役立つ研究を一つでも多く成功に導こうとする理念がある。

基礎研究センター内の医薬研究所にて
写真中央:上野 賢也(うえの けんや)氏/医薬研究所 京都大学大学院博士後期課程修了 博士(理学)
写真一番右:坂本 恵子(さかもと けいこ)氏/医薬研究所 京都大学大学院博士後期課程修了 博士(医学)
東レに入社後は、研究者としてどのような価値観を持ってキャリアを歩まれましたか。
上野氏:私がアカデミアに残らずに東レに就職したのは、任期制のポスドクで実績を積み重ねてテニュアなポジションを目指すよりも、最初から企業の一員となって腰を落ち着けて研究に没頭したかったからです。実際に就業環境や待遇の面でも恵まれ、日々の研究業務をしっかりとこなしつつも大学院時代に執筆した論文の査読対応や博士論文の執筆をするプライベートの余裕も十分にありました。私のように博士号の取得が間に合わず、入社後に研究をまとめて博士課程を修了する社員も複数存在します。研究者にとって、そのスキルや可能性を伸ばしてくれる環境があると言えるでしょう。
坂本氏:私も研究者としてしっかりとしたキャリアを歩ませてもらっていると感じています。大学院時代に自己免疫疾患に関する研究に取り組んでいた私は、東レに入社してからも自己免疫疾患の阻害薬のテーマに所属しました。所属したテーマは最終段階のテーマで1年弱で候補化合物を他社へ導出し、このテーマは終了しました。その後、免疫関連疾患に関する「アングラ研究」を行う毎日が始まりました。でも、それは半ば公認されたものであり、研究所内でのフォローも予算も受けられましたし、この2年間では研究スキルを改めてしっかりと磨くことができました。神経変性疾患のテーマの後、細胞死に対する阻害剤のメカニズム解析を進めました。そして2022年に産休に入り、2024年に職場復帰した後も細胞死に対する阻害剤のメカニズム解析を行い、現在も継続検討しています。今は薬効のある化合物がどのようなメカニズムで機能しているのか、仮説を立てながら細胞やマウスを用いた実験などで検証していく毎日です。
上野氏:大学ではアルゴリズム解析とバイオロジーの双方を研究し、数理を生かした生物のメカニズム解析に取り組んでいました。東レに入社後は、ある薬効が確立された医薬品を転用して別の疾患に作用する治療薬を開発するリポジショニングを進めるプロジェクトの一員として、数理解析によって生体メカニズムを明らかにする役割を担いました。こうした生体現象のデータを数理的にモデル化して未解読の生体現象の解明に繋げる私の研究ですが、総合化学メーカーの東レでは医薬品以外の領域にも活用していく機会があります。事実、最近は医療材のメカニズム解析にも応用しました。東レは妊娠高血圧腎症に対する血液浄化治療法の確立を目指して透析治療カラムの開発を進めていたのですが、このプロジェクトの一員として数理解析による生体メカニズム解明を担いました。このプロジェクトはAMED(国立研究開発法人日本医療研究開発機構)の事業にも採択されています。それだけ社会的な要請や期待が高いプロジェクトと言えそうです。
坂本氏:上野さんが述べたように、東レには社会に役立つことを目標に研究を進める風土が根付いていると思います。先の細胞死を阻害する治療薬の研究は臨床開発に入る前の段階ですが、東レはこの後は臨床開発を進めてくれるパートナー企業に導出するか、共同研究で前に進めます。自ら臨床開発を進め、上市した方が高い収益が期待できますが、狙う疾患の臨床開発が得意なパートナーに委ねた方が早く患者様に薬が届けられ、社会に貢献できます。東レの研究者としては、研究成果をパートナー企業に認められた満足感が得られ、成功したときの収益は減りますが、パートナー企業によって多くの研究成果を臨床開発に進められ、社会貢献の確率が上がる利点があります。魅力的な環境や制度で研究者のモチベーションを引き出している東レですが、「新しい価値の創造を通じて社会に貢献する」という経営理念においても研究者を鼓舞する面があるのです。

上野 賢也(うえの けんや)氏/医薬研究所
京都大学大学院博士後期課程修了 博士(理学)
京都大学の理学部で早くから生物と数理解析に興味を持ち、学部4年生には本格的に数理アルゴリズムとバイオロジーの両方に関与できる研究室を選ばれました。その後は植物の体内時計のメカニズムを解明すべく、細胞間や組織間の相互作用について画像データから時系列解析を進められました。東レに就職後は生物と数理の双方の領域をまたぐ解析研究に没頭し、入社後に論文アクセプトを受け博士の学位を取得。

坂本 恵子(さかもと けいこ)氏/医薬研究所
京都大学大学院博士後期課程修了 博士(医学)
北里大学理学部及び博士前期課程で免疫の研究を行い、医薬品の研究に興味を持たれました。その後、京都大学医学研究科の教授のもとで、産学連携プロジェクト内のテーマのうち、指定難病の1つであるSLE(全身性エリテマトーデス)に対する治療薬や発症メカニズムの研究を行うグループに博士後期課程の研究者として参加、その後博士の学位を取得されました。そして、そのプロジェクトで出会った製薬メーカーの研究者から、企業の研究者は様々なテーマに関われると聞き、指導教授の紹介もあって東レへの就職を決められました。